うしブログ

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趣味で運営する、GeoGebraの専門ブログ。

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(試論)手がつかない、とは何か―「現状」を「変化した自分の心」まで引っ張るという発想

「手がつかない」とは何か。

 

その心の正体は、今までそれに手をつけなかったという「現状」から、手をつけ始めたという状態に「変化」することに対する恐れだ。

 

心はそんなに簡単に、変化を受け入れることはできない。変化に対しては、たとえそれが良い変化であったとしても、抵抗するのが心の性質だ。

 

だから、現状を変化させる前に、いったん1つのクッションを挟む必要がある。
それは、変化の証を現状に突きつけて、現状に対して変化を要求する、という発想だ。
現状を変化させる前に、自分自身を変化させるのだ。現状が自分に合わなくなったところで、現状を自分のところに引き寄せる、という発想だ。

 

10から20に変化するように迫られているとする。現状は10だ。しかし、20に変化することを迫られている。このとき、なぜ20への変化に抵抗感があるかといえば、それは、自分が10だからに他ならない。自分が10なのに、現状が20になってしまう。自分と現状との調和を、あえて自分から引き剥がすことは、嫌に決まっている。

 

しかし、現状とは無関係に、自分が20に変わってしまうとどうだろう。今度は、10である現状が気持ち悪くなってはこないか?「現状が自分から離れることへの抵抗感」が、「現状が自分から離れていることへの抵抗感」に、そっくり置きかわるんだ。
こうすれば、心の性質に逆らわず、自然に「手をつけ」たくなるはずだ。

 

動けるときというのは、現状を置いてきぼりにして、まず自分がいち早く変化しているはずだ。
キッチンに溜まったお皿を洗わないといけない、というとき、自分自身が現状と同じように「キッチンにはお皿が溜まっているのが普通だろう」と考えているうちは、いつまでも皿洗いに手はつかないだろう。お皿が転がっている現状を、いったん置いてきぼりにして、「キッチンにお皿が一枚もなく、清潔な状態が普通だろう」と考えるようにするんだ。そうすると、現状と自分との間にズレが生まれる。そのズレを埋めたいという衝動を利用して、皿を洗うんだ。

 

手をつけることができるのは、現状を置き去りにして、それより先に自分が変化できたときだけだ。

 

(追記①ーマインドフルネスとの関係はどうなのか)

この発想、ひょっとすると「マインドフルネス」の考え方には反するかもしれない。
たしかに、マインドフルネスは、ストレスを低減する有効な手段だ。しかし、手をつけよう=現状を変化させよう、という衝動だって、その正体はストレスに他ならない。自分の心と現状とのズレ(ストレス)を、自分が現状に合わせる(マインドフルネス)のではなく、現状を自分に引っ張ってくる(手をつける)ことで埋めようというのだから。
しかし、「手をつける」ことも、結局は、現状と自分の心とを揃えようとする営みだから、マインドフルネスの一環と位置づけることもできるだろう(積極型マインドフルネス、と呼べるかもしれない)。しかし、そのように考えても、「手をつける」ためには、いったん、現状から心が離れる「マインドレスな段階」を通らなければならないことは、認めざるを得ないのではないか。

まとめると、①自分では現状をどうしようもなく、抗わずに生きていこう、と思うときには、現状に自分を合わせる、現在の通常の意味における「マインドフルネス」が、ストレス低減には効果的である。②逆に、やる気が出ない等の理由で、やらなければならないことに手がつかないというときには、本記事の「積極型マインドフルネス」が有効ではないか。どちらか片方だけではうまく生きていけない。どちらも使えるとよい。

 

(追記②ーいわゆる「5秒ルール*1」との関係)

上記で青字+太字にした「ズレを埋めたい衝動」というのは、経験則上、発生から約5秒間で消失する。その間に現実に動いて「手をつける」という変化を起こさなければ、心の方が、現状に合わせるように戻っていく。5秒を過ぎて、衝動が消えたときは、もう一度、心を現状からずらせば、再びこの衝動が生じるから、その間に手をつけるべし。

この衝動は、あくまで、手をつけるという変化に伴う抵抗感を緩和させるための、クッションにすぎないから、衝動が生まれたからといって、それに抗って(我慢して)手をつけないようでは、それに手をつけることはできない。

もちろん、何かある作業をしているときに、別の作業をしたい衝動に駆られた場合を考えれば、それを我慢することで衝動が消えてくれなければ、今の作業を続けることが不可能になってしまう。その意味で、衝動が消失するメカニズムとしての「5秒ルール」は必要不可欠といえる。

 

(追記③―クリエイティブな活動がうまくいくために)

クリエイティブな活動は、創造意欲という名の衝動の連続だ。「これを作ってみたい」「こんなことを書いてみたい」「こんなものを描いてみたい」と思ったとき、そこから5秒以内に、それを制作の場(キャンバスだったりWordだったり紙の上だったりするだろう)に反映させる(=変化をもたらす)ことができるような環境でなければ、浮かんだアイデアを現実に表現しようという衝動は消え、いつまでも産みの苦しみに悩まされるだろう。

表現したいものが頭に浮かんで5秒以内に、即座にそれを現場に反映させる。現実には、そうした理想の環境を持てていない場合が多い。なぜならば、体裁を気にするからだ。アイデアが浮かぶ。それを表現したい。しかし、それを表現するにあたって、人から認められるような、あるいは人から要求されている、形式、執筆要領、適切な表現などなど、外部的な体裁が守られるように、と気にしながら表現していかなければならない。そういうものだと考えている。そういう制作現場しかあり得ないと思っている。そんなことでは、5秒なんて、あっという間に終わってしまう。気付いたときにはもう、創作意欲はすっかり失せてしまい、「面倒くさい」の一点張りだ。

 

体裁への配慮が必要な制作現場は、頭に浮かんだアイデアを表現するための現場としては、甚だ劣悪な環境であると言わざるを得ない。

「アイデアが浮かばない」のではない。体裁を気にする環境が、アイデアを表現したいという衝動が持続する「素晴らしい5秒間」を、潰してしまっているだけのことだ。

したがって、クリエイティブな作業がうまくいくためには、体裁を問わず、浮かんだアイデアを即座に表現できる(簡単に言えば、「何をやっても許される」自由な場としての)「第一の制作現場」と、そこで生まれた表現物を外部に公表するにあたって、守らなければならない体裁を整える「第二の制作現場」の、2つの場を設け、両者の作業を明確に区別することが大切だ。