問題解決を先延ばしにする癖と、「自分がかわいい」精神
昼寝をしていたら、夢をみた。
となりの建物から、数人の叫び声が聞こえた。尋常ではない事件が起こっていることが、マンションの3階にあるぼくの部屋からも明らかだった。
声がするのはベランダのほうだ。行ってみると、向かいに住んでいる家族4人が、その建物から逃げるために、こちらに飛び移ろうとしている。
「助けてください!お願いします!」
ぼくは、巻き込まれたくない一心で窓を閉めて施錠し、あわててカーテンを閉めて、むこうから自分の姿が見えないようにしてから、急いで1階に下りて、マンションから逃げた。
夢はそこで終わった。
ぼく自身がそうなのですが、与えられた課題になかなか取り組めないとか、やらなければならないと分かっていても着手できないというように、問題解決を先延ばしにして取り組まない選択をしてしまうことはありませんか?巷では「先延ばし症候群」なんて言われていますが、ほんとうに切実な問題です。
その根本的な原因は、「自分がかわいい」と考える精神構造にあるのかもしれない。
問題を自分の問題と考えてないんじゃない?できれば他人が勝手に悩んでもらってうまいこと解決してほしくて、問題を自分が抱えて汚れてしまうより、それと無関係に自分は綺麗に生きていきたい、そう思っているんじゃない?
それで、期限が迫ると、やっと自分に非が出てくるもんだから、それを回避するためだけに問題に取り組む。それでも、その問題を解決したいんじゃなくて、要はその問題に取り組んでいないことがバレた場合に自分の立場が汚れちゃうことを防ぎたいという問題を、期限が迫ることでようやく自分の腹に抱えたものだから、それを解決したいと思っているだけなんだ。
与えられた問題をこなすことと、いま腹に抱えた自己中な問題を解決することが、タマタマ締め切りの切迫によって利害の一致をみたから、という動機だけで、問題に取り組んでいるんだ。
締め切りが来るずっと前なのに問題に取り組める人って、実はその問題を、自分の問題として腹に抱える気概があるんじゃないかな。解決できていないことを、自身の醜さ、自身の不完全さ、自身の痛みとして考えることができる人なんじゃないかな。
ここではっきりとカミングアウトしてしまうけれども、ぼくは、自分がかわいい。
できれば厄介ごとに関わらないで平穏に暮らしたいと思うし、他人が困っていても、その人が頑張って解決すればいいと思っちゃう。なにか課題を与えられても、せいぜい「どうやら社会(という他者)が、この問題の解決を必要としているらしいから、まあ気が向いたら、その解決に手を貸してやってもいいか」くらいにしか考えられない。課題はどうやっても他人の課題にしか見えなくて、自分の腹にあるものだとは、頑として思わない。
ここまで書いて、自分はなんて冷酷な精神構造を持っているのだろうと、嫌気がさす。もちろん常日頃から、思いやりのある心で生きていきたいと考えてきたつもりだ。でも、問題に直面した際の自分の姿勢を客観的に観察する限り、自分の根底にある精神構造は冷酷であるといわざるを得ない。
他人の痛みを自分の痛みとして感じ取り、放っておけない「自分の問題」として、解決に取り組む。そういう精神が根底にあれば、たしかに先延ばしなんて選択肢に出てこないよね。
(追記)
言葉で言うのは簡単だけれど、他人の問題を自分の問題として捉えることは、とても難しいですね。的確な言い換えであるかは分かりませんが、我が身可愛さに執着する自分の人格に、その問題に取り組もう・解決しようとする、今までの自分とは異なるべつの存在を「取り憑かせる」という感覚に近いのではないかと思います。
痛みを理解し、解決したいと願う別人格を自分に憑依させる。完全にオカルトの世界になってしまうので、さすがに本文には回せません。しかし、そのくらい切実に考えなければ、「他人の気持ちになって」というお決まりの言葉遊びで終わってしまうような気がするのです。
(さらに追記)
先延ばしの心裡には「失敗したくない」という自己保身の精神が大きく関係しています。先延ばしをしてしまうと、試行錯誤のチャンスを失い、ノウハウが蓄積できず、結局は深みのない成果しか出ません。早めに課題に取りかかるほど、失敗から学んで成長するチャンスが増えます。単に「成功」といっても、たった1回の実行で成功を収めることを目指してはいけません。事前に無数の失敗を重ねるべきなのです。