うしブログ

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趣味で運営する、GeoGebraの専門ブログ。

(作業メモ)StartPoint要検証(2行の場合;テキスト変更時未定義問題)

(要修復)ToggleButton・RollPolygonWithoutSlipping・貯金時計・直感力トレーニング

(メモ書き)自発的な試行錯誤について

※注意:この記事は、私が頭の中で考えたことをバーっと書き出しているだけなので、何を言っているか分からなかったり、憶測の域を出なかったりします。あらかじめご諒承ください。

 

 

遊び:何にも縛られることなく、自分の好きにできる→こうやるとうまくいかなくて、こうやるとうまくいくんだ、という成功・失敗の経験を、自発的に行う。

 

正解とか、お手本とか、目標があって、それを目指さなければならない、という心理状態では、失敗は悪であって、自発的に行うことも許されない雰囲気が漂う。

→終始決まった作法でしか物事に取り組めないという、束縛された状態を味わうことになる。

 

→どちらが、より自然に、しかも自力で応用可能な学習ができるか??

→私の頭の中では、「お遊び感覚で自発的に試行錯誤する機会を設けることが、学習には大切だ」という仮説が有力。検証はできていない。

 

マリオのゲーム:ゴールを目指すための最適なルートは存在するものの、最適ルートを通らなくても死にはならない。自分でこれと決めたルートを行ける自由さがある。その気になればゴールしないでステージ内を自由気ままに徘徊して終わることもできる。

→プレイヤーはゲームクリアを度外視して、最適ルートとか、攻略のための条件とかいったものに縛られず、「ちょっとそこ行ってみたいな」と思ってルートをはずれることもできる。

→ゲームクリアという目標に拘束されない、自由気ままな操作が許容されているからこそ、やりたい放題プレイして、「あ、こういうことをするとクリアできないんだな」「こう行くとクリアできるけど、さっきの方が美しくクリアできるな」「ここでアイテムをとっておけば、次のステージに応用できるのか」といった、攻略へのスキルを自発的に習得できる。

 

→仮にプログラマーの考える最適ルートがプレイヤーにあらかじめ教えられ、それを逸脱したら死ぬ設定だったらどうか。

ここで逸脱したらなぜ駄目なのか。まあルール上死んでしまうから駄目なんだろうな。でも実際に逸脱したら何が起こるか、それがどうしてミスルートなのかを知ることはできない。そんなことを知る必要はないから正しいとされる道を行けるようにすることだけを練習せよ、と言われたら、まあスキル習得のための効率的な手段なのかな、と納得してしまったりして。

これでマリオの攻略ができるようになったとして、その攻略スキルの「身に付き方」は、自由気ままにプレイを繰り返した結果、自発的に失敗を経験して、攻略ルートといわれているルートがなぜ攻略ルートたりえているのか、その理由を身をもって=自発的に知る場合と比べてどうか。

また、ゲーム攻略という作業に面白味というか、やりがいというか、自分がそこにかかわっているという「参加してる感」をより大きく味わえるのは、どちらか。

 

学習には、自分の思うように、何にも縛られずに、勝手気ままにやってみて、それでどうなるのかを経験できる場が必要なのではないか。というかむしろ、学習環境はそもそもこういった自由な環境でなければいけないと思う。

15×8の計算方法を勉強するときには、先生は5×8+10×8とか説明するけど、じゃあ1×8+5×8って計算してみようよ。答えが違うぞ。なんでだろう。そうか15は1+5じゃないもんな。こういう自発的な逸脱=遊びをいつまでもいつまでもやるべき。遊びを楽しみ続ける中で、計算方法が経験的・主体的に裏付けされる。

いくらでもふざけてよくて、その結果目標を達成できるのかできないのか、こうふざけたら、目標との距離感で、どういう位置に自分が置かれるのか。この「ふざける」「出て来た結果を考える」作業を何回でも、いつまでも行っていられる自由な環境が、理想の勉強環境だと思う。

これは勉強を好きになる条件でもある。勉強をストレスと感じず、かつ学習成果が自身の人生経験に裏付けられる強固なものとなるために必要だ。

 

留学で語学力がつくのは、「この言い方が正しい」「間違っている」の縛りから解放されて、「何をしゃべっても良いけど、通じるときと通じないときがあるから、なんでも喋ってみよう」という自由な環境が保障されるからだと思う。

私がネイティブの日本語を喋れるのも、幼少期に何を言っても許される環境に置かれていて、具体的には幼児語「ぶーぶー」「ぽんぽん」「やだ」など、とりあえずフィーリングで喋ってみて、相手に伝わっていそうなものを経験的に知っていく作業を、自由気ままにガンガンやっていたからだと思う。

 

勉強は、こうじゃなければならないという謎の縛りがあるから嫌いになってしまう。正解ルートを教えられ、そのとおりに進むことだけを考えてしまうから、面白くない。そうではなく、失敗しにいくつもりでちょっと遊んでみて、それでなぜ失敗したのかを考える、という、おふざけ的経験を大量に積んで、もう 5分で100機くらいマリオ死んじゃったよ、くらいの失敗経験を重ねて、そうかこう行けばいいんだよな、という正解ルートを、経験的に把握するのだ。正解ルートを教わるだけで終わった奴と比べて、100機のマリオの犠牲のもと経験的に正解ルートを把握している人間は、勉強を遊びのように楽しみ、その成長スピードも著しく、また学習成果の応用性も抜群であるはずだ。

 

だいたい書けたのでおわり。

 

良い記事を書こう、という束縛から解放されて、めっちゃ自由気ままに、「遊び」として書いたこの記事は、40分で書かれ、総字数およそ2000字である。このペースで10,000字を書くとすると、単純計算で200分=3時間20分になる。失敗をしたくない、という束縛から解放された執筆環境では、10,000字を書くのに4時間かからない。その10,000字をさらに自由な気持ちでよりブラッシュアップするよう試行錯誤するとなると、今度はたたき台ができている分、ひととおり直すのに3時間もかからないであろう。おふざけによる試行錯誤がいくらでも許された環境というのは、なんと効率的でストレスフリーな執筆環境であろうか。

 

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失敗を恐れて挑戦すらできずに時間切れを迎えるのは最悪。それは不戦敗であって、最も意味のない失敗だ。ふざけてみて失敗するという経験すら、やろうとしないのでは、成功するはずがない。失敗も成功もしていない空白の時間をつくることは、一時的な精神的安定を求める心から、ついやってしまうことだ。しかしそれよりも、ふざけてでも失敗経験をしにいった方がましである。遊び半分で失敗してみる方がずっと有意義である。