文系が考える「数学の意義」
◆数学は何のために勉強するのか
「文系の人間にとって、数学は、何に役立つんだ?」と聞かれたら、皆さんはどう答えますか?
円の面積を知らなくても、生きていけるのでは?
微分を知らなくても、何の苦労もしないのでは?
確かに、数学が扱う個々の議論は、抽象的です。日常生活にそのままの形で登場することは、ほとんどないといえます。
文系の人間に、「数学を学べば、円の求積公式や、微分法を知ることができます」とアピールしたとしても、必ずしも魅力的に響かないのは、「それ自体知らなくても、別に大して困らない」からに他なりません。
では、数学は、文系の人間にも魅力的に響くような機能は、一切持っていないのでしょうか。文系を学ぶ私が「数学を学ぶ意義」として、最近思っていることを書いていきます。
◆「議論の基本スキルを身につける場」としての数学
私の経験上、数学の世界というのは、2つの特徴を有しています*1。
①主張を「正しい」と評価することができるためには、その主張を証明できなければならない。
②証明された主張は、正しい主張であると評価される。
ここでいう「主張を証明する」とは、主張を、公理または論者の定めた前提から、論理的に導くことを意味します。
つまり、数学の世界では、主張が正しいかどうかの判断は、公理または論者の定めた前提から、論理的に導かれるものか、導かれないものか、という一点のみで行われるわけです。
・公理からも、論者の定めた前提からも、論理的に導けない主張(証明できない主張)は、例外なく、誤った主張です(①の対偶)。
・公理または論者の定めた前提から、論理的に導ける主張(証明できる主張)は、例外なく、正しい主張です(②)。
ですから、ある人と何か数学的な議論をするときには、以下の2点のみに注意すれば足りるということです。
①相手の主張を聞く際には、「公理や前提から導出できない主張が含まれていないか」に注意する。相手が、公理や前提との論理関係が不明確な説明をした場合に、それに気付くことができれば、それだけで、批判・反論の十分な理由になる。
②自分が相手に見解を主張する際には、公理・前提を出発点とした論理的な説明ができないような主張は、しないように気をつける。それさえ守れば、相手からの批判・反論を完全に回避できる。
日常、私たちが他者と行う対話や討論・議論においては、数学ほど厳密な論理性が要求されない場合もあります。相手が(100%まではいかなくても)おおむね納得してくれれば足りる場合がそうです。
その意味で、数学から学べるのは、「100%正しい主張を行い、また、1%でも正しくない主張を批判するには、どういう点に注意を払えば良いか」という、議論における最も原始的かつ基本的なスキルです。これは、文系の人間にとっても、身につけるべき基本スキルではないでしょうか。
数学には、いくつかの抽象的なテーマを題材にして、このスキルを鍛える場としての意義があるということです。
文系の私にとって、円の求積法や、微分法を知ることは、数学を学ぶ副次的な効果に過ぎません。
最も興味があるのは、「どういう前提のもと、どういう理屈で、円の面積がπr^2になるのか」、「微分とは、いかなる前提におけるいかなる概念なのか」といった、数学の、論理体系としての側面です。
◆数学を学ぶ際に心がけたいこと
議論の基本スキルを鍛える場として数学を学ぶ際には、教科書のその記述が、どうして正しいのか、つまりその記述が依拠している前提・公理は何か、という点を、どこまでもストイックに追究することが大切です。
本来、数学の教科書における説明は、こうしたストイックな追究に耐えうるだけの厳密性をもっているべきだと、私は思います。もちろん、初学者に分かりやすいようにとの配慮から、厳密な議論を避けることも時には必要です。しかしその際にも、「ここでは、○○が成り立つものと認めることにする」というように、きちんと断りを入れて、本来証明すべき主張を、議論の前提に据えていることを明示すべきです。それもせずに、ふわっと説明して、「なんとなく理解してくださいね」で終わってしまう教科書からは、そもそも議論の基本スキルなんて学べません。
以上が、文系を学ぶ私が「数学を学ぶ意義」として、最近思っていることです。
*1:この主張は、私の経験に裏打ちされているに過ぎないので、反論はありえます。